2009年 01月 16日
今年もどうぞよろしくお願いします。 |
あけましておめでとうございます。
市民の皆さん、2009年の輝かしい新年、あけましておめでとうございます。昨年は政治も経済も大波乱の年となりました。年末年始も「年越し派遣村」、「百年に一度の金融危機」という言葉に代表されるように、近年になく大きな不安を抱きつつ新年を迎えた方も多いことと思います。
我孫子市の現状
私たちの街、我孫子市も例外ではなく、かつてない厳しい財政状況のなかで、平成二十一年度予算編成を行なっているところです。
迎える二十一年度は、歳入の柱である市税は固定資産税や都市計画税の評価替による減、団塊の世代の大量退職や景気の悪化などで大幅に減少、逆に歳出は委託料などの物件費や社会保障費などの増加が見込まれ、前年度並みに事業を遂行する為には、約六億円の経常経費の削減をしなければ予算を編成することができなくなっています。
まさに、事業の選択と集中をダイナミックに実行し、行政のスリム化・効率化の二本柱を基本に市民・職員・議会の皆が危機意識を共有しながら大胆に行財政改革を進めていかなければならない、我孫子市始まって以来の財政非常事態の年となっています。
深刻な経済危機、襲来!
今、米国に端を発した金融不安は、瞬く間に日本を、いや世界全体を深刻な経済危機に落とし入れています。そして、なんといっても世界の中心であるアメリカという国が今までの「小さい政府」から「大きな政府」に、転換をしてきていること、そして自由奔放の国であった米国が「無規制国家から規制国家」へと大きく変わってきていることなど驚きとともに、危機感すら覚えているところであります。
米国に右へ習えと今日まで寄り添ってきたわが国日本は、本当にこれで良かったのか、転換への動きが鈍い日本、楽観論、言葉遊びで終始するような国政の状況、日銀や財務省のスピード感のない官僚体制に失望感すら感じているのは私だけでしょうか。
そんな中で、基礎自治体としての我孫子市も今までのような同じ方法、考え方で、行政執行していったのでは、将来とんでもない失態を招くことになりはしないのか、今、自問自答しているところであります。市民にとって、我孫子という街が、真の自治体として本当に「住んでみたい。そして住み続けたいと言われる街に」なっていくためには、思い切った方向転換の時が来ているものと私は思っています。
新年に思う
今年の年末・年始は年老いた私の父(八十八歳)と一緒に平和台の我が家で過ごした。銚子の実家に暮らす父(八十八歳)がこの二、三ヶ月、急に体が弱くなり、一人で生活することに不安が出てきたからだ。何でも出来た父が急に歩くことも、ズボンを穿くことも、お風呂に入るこ
とも不自由になってきた。老いの進行は突然にやってくる。普段は実家のすぐ近くに住む、姉の世話で暮らしていたが、年末・年始、何かと忙しい姉の代わりに私が世話をすることになった。
銚子の実家まで車で迎えに行き、約二時間で我孫子に着いたのだが、父は「遠い」の一言、車に弱い父は少し疲れたようだ。平和台では一階の和室に父と私の二枚の布団を敷き、年末・年始中、一緒の部屋で過ごした。こんな形で生活するのは初めての経験だった。
おかげさまで妻や子供たちの協力もあり、平和台にいる間、家族団らん、みんなで食事をとり、夜は近くの寿司店に出かけ、軽く熱燗で一献、お正月は地元、竹内神社へ家族で初詣。無事、平穏に暮らせた。急に増えた家族、父の存在に対する家族の抵抗感も少なく、父にとっては住みなれた銚子を離れて不安もあると思うが、どうにか合格点をもらえたものと思っている。
それにしても、「子供泣かすな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ。」のとおり、人は生きている限り、誰でも平等に年を経る。我孫子市も後四年後には確実に四人に一人が高齢者の街に、既に三十七~三十八%の高齢化率になっている自治会もあちこちに存在している。高齢者が活き活きと元気に暮らしてもらうための諸施策の確立は市政の大きな責務となっている。厳しい財政状況はこの先も続いていくが、新年、もう一度、高齢者施策について、お年寄りの立場・視点を基に市政に反映していくことの大切さを再認識させられた年末・年始だった。
市民の皆さん、2009年の輝かしい新年、あけましておめでとうございます。昨年は政治も経済も大波乱の年となりました。年末年始も「年越し派遣村」、「百年に一度の金融危機」という言葉に代表されるように、近年になく大きな不安を抱きつつ新年を迎えた方も多いことと思います。
我孫子市の現状
私たちの街、我孫子市も例外ではなく、かつてない厳しい財政状況のなかで、平成二十一年度予算編成を行なっているところです。
迎える二十一年度は、歳入の柱である市税は固定資産税や都市計画税の評価替による減、団塊の世代の大量退職や景気の悪化などで大幅に減少、逆に歳出は委託料などの物件費や社会保障費などの増加が見込まれ、前年度並みに事業を遂行する為には、約六億円の経常経費の削減をしなければ予算を編成することができなくなっています。
まさに、事業の選択と集中をダイナミックに実行し、行政のスリム化・効率化の二本柱を基本に市民・職員・議会の皆が危機意識を共有しながら大胆に行財政改革を進めていかなければならない、我孫子市始まって以来の財政非常事態の年となっています。
深刻な経済危機、襲来!
今、米国に端を発した金融不安は、瞬く間に日本を、いや世界全体を深刻な経済危機に落とし入れています。そして、なんといっても世界の中心であるアメリカという国が今までの「小さい政府」から「大きな政府」に、転換をしてきていること、そして自由奔放の国であった米国が「無規制国家から規制国家」へと大きく変わってきていることなど驚きとともに、危機感すら覚えているところであります。
米国に右へ習えと今日まで寄り添ってきたわが国日本は、本当にこれで良かったのか、転換への動きが鈍い日本、楽観論、言葉遊びで終始するような国政の状況、日銀や財務省のスピード感のない官僚体制に失望感すら感じているのは私だけでしょうか。
そんな中で、基礎自治体としての我孫子市も今までのような同じ方法、考え方で、行政執行していったのでは、将来とんでもない失態を招くことになりはしないのか、今、自問自答しているところであります。市民にとって、我孫子という街が、真の自治体として本当に「住んでみたい。そして住み続けたいと言われる街に」なっていくためには、思い切った方向転換の時が来ているものと私は思っています。
新年に思う
今年の年末・年始は年老いた私の父(八十八歳)と一緒に平和台の我が家で過ごした。銚子の実家に暮らす父(八十八歳)がこの二、三ヶ月、急に体が弱くなり、一人で生活することに不安が出てきたからだ。何でも出来た父が急に歩くことも、ズボンを穿くことも、お風呂に入るこ
とも不自由になってきた。老いの進行は突然にやってくる。普段は実家のすぐ近くに住む、姉の世話で暮らしていたが、年末・年始、何かと忙しい姉の代わりに私が世話をすることになった。
銚子の実家まで車で迎えに行き、約二時間で我孫子に着いたのだが、父は「遠い」の一言、車に弱い父は少し疲れたようだ。平和台では一階の和室に父と私の二枚の布団を敷き、年末・年始中、一緒の部屋で過ごした。こんな形で生活するのは初めての経験だった。
おかげさまで妻や子供たちの協力もあり、平和台にいる間、家族団らん、みんなで食事をとり、夜は近くの寿司店に出かけ、軽く熱燗で一献、お正月は地元、竹内神社へ家族で初詣。無事、平穏に暮らせた。急に増えた家族、父の存在に対する家族の抵抗感も少なく、父にとっては住みなれた銚子を離れて不安もあると思うが、どうにか合格点をもらえたものと思っている。
それにしても、「子供泣かすな、来た道だ。年寄り笑うな、行く道だ。」のとおり、人は生きている限り、誰でも平等に年を経る。我孫子市も後四年後には確実に四人に一人が高齢者の街に、既に三十七~三十八%の高齢化率になっている自治会もあちこちに存在している。高齢者が活き活きと元気に暮らしてもらうための諸施策の確立は市政の大きな責務となっている。厳しい財政状況はこの先も続いていくが、新年、もう一度、高齢者施策について、お年寄りの立場・視点を基に市政に反映していくことの大切さを再認識させられた年末・年始だった。
by abiko-21
| 2009-01-16 16:05
| 印南宏